「人生は筋書きのないドラマである」とか「野球は筋書きのないドラマだ」などと用いられるこの「筋書きのないドラマ」は矛盾した言葉である。なぜなら「筋書きがある」演劇や戯曲こそを「ドラマ」というのだから……。そこでこの言葉は、偶然がもたらした感動的な出来事や、劇的な結末を迎えたスポーツの試合などについて、「そんじょそこらの脚本家ではとても筋書きを書くことができないドラマである」と言いいたいのだととらえたい。この「そんじょそこらの脚本家ではとても筋書きを書くことができない」には、そんじょそこらの脚本家の書く脚本ではとてもこんな感動を人々に与えられないという意味あいと、あまりに都合のよすぎる偶然が重なった展開なのでちょっと気の利いた脚本家なら気恥ずかしくて書く気にもならないという意味あいがふくまれる。
このようなドラマを作っている全知全能の神様は確かに優秀な脚本家には違いないが、あまりやる気は感じられず、万人に感動を与える劇的な脚本が書かれることはめったにない。そういうわけでわれわれの日常は、本当の意味で「劇的な筋書きのないドラマ」つまり、ドラマティックな展開がまったくないロードムービーのような、淡々とした退屈な日々が続くのである。(CAS)