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季語とは、日本の四季の一季節を表すと定められている詩語で、俳句ではその作品の中で季語を一つ使うことがルールとされている。ただしその縛りは、5・7・5の音節ほど強くはなく、季語を用いない無季の作品も、出来のよいものは俳句作品として認められている。
季語は、それがなくても俳句としてなりたたないわけではないが、それがあったほうがより俳句らしい俳句を作ることができる便利なツールととらえるのが適切かと思われる。季語がなぜ詩語として優れているかというと、この言葉を用いることにより、空間(見た目や音など)と時間(多くの人々に共有される季節の感覚)が特定され、イメージがより具体的に鮮やかに読者に伝わるからである。例えば、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という正岡子規のバカみたいな句は、法隆寺の近所で柿を食っているという空間性(視覚、聴覚、味覚)と、秋の季語である「柿(の実)」の効果により、日本人であれば季節の清涼感や冬に向かう一抹の寂しささえも感じることができるという時間性を兼ね備えることで、作者と同じ美的感覚を共有できるのであって、要するに「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句は、季語「柿」のおかげで名句とされているとさえいえる。空間と時間が瞬時に特定されるという、このような便利な詩語は他になかなか見あたらず、言葉数の圧倒的に少ない俳句において季語は、見飽きても捨てるに捨てがたい配偶者のような貴重なツールなのである。(CAS)